同じ窓







同じ窓






教室の窓から、グラウンドが見える。さっきまでごちゃごちゃと残っていた生徒たちは、もうどこにも見当たらない。 今日は午後から部活もないから当然かと思って、銀八は煙草の煙を吐いた。 こんなところで煙草を吸っているのが見つかったら、うっかりしてたじゃすまないことも重々承知だ。 でも今日くらい、教室の神様が居るのならば許してほしい、なんて甘えたことを考える。
静まり返った教室の、素っ気ない机の並びや、空っぽのロッカー、それらと相反してやたらと派手に書きたてられている黒板、 そのすべてに吐きだした煙草の煙が広がっていく。


「先生」
「……なあに、まだいたの」


返事をしながら、ゆっくりと煙草をもう一口吸い込んだ。そして懐から携帯灰皿を出して、火を消しながら振り返る。 振り返る前から、その声の主が誰なのかはわかっていた。


「職員室ももうほとんど先生残って無いから、帰ったのかと思ったけど。やっぱいた」
「そんなに会いたかった?」


ふざけて肩をすくめて笑って見せる。土方は少し心外そうに眉をしかめたが、いつものように呆れたような息をついて、開けっぱなしの扉から教室に入ってきた。 三月が終わるまでは、一応ここの生徒ということになるけど、仮にも今さっきここの束縛から解放された身なのに。
そのくせ、こっちに向かってくる土方はやたらと礼儀正しい感触がした。教室に入ってくる足音や姿勢や、まとっている空気とか。 卒業式の作り作った「厳粛」をそのまんまもってきたみたいだった。不思議にそれが似合っているから、銀八はそれがしゃくだった。 いつもの土方ではないことを分かっていながら、それが綺麗だなと思ったのも少し嫌だった。
そんな感情が、生徒たちに比べて、よっぽど子供っぽいとも分かっていながら。


「んで、なんの用なの?わざわざこんな時間に。忘れ物?」


壁の時計は、三時一分前を差している。でもこの時計は一分遅れているから、今ちょうど三時だ。 この教室の、みんな知っているルールや暗黙の了解、こんなどうだっていいことを共有していたことを、土方の横顔を見て思う。 こいつはそんなことをとっとと忘れて、ここにとどまり続ける自分も簡単に忘れて、新しいこれからに飛び込んでいくのだろう。 そのことを、久方ぶりに寂しい、と思った。もう慣れたはずだったのに。


「忘れ物、って言って来てある」


土方はすっと窓の外を指さす。グラウンドに、近藤と沖田の姿が小さく見えた。土方が身軽なはずだ。 近藤が二つ鞄を持って、沖田が卒業証書の入った筒を二つ持って立っている。あれは土方の物なんだろう。


「あいつらか。部活に顔でも出してたの?」
「そうだけど」
「……なんかあれだよな、同窓っていい言葉だと思うわ。わかる?同じ窓って書くんだぜ?」


さっきまで煙草を持っていた手で、空中にその文字を書いてみる。同じ窓。


「同じ教室の同じ窓から同じ景色見て、一緒に勉強したとかそりゃ思い出にもなるし、長いこと一緒にいるわな。いいの?あいつら待たせちゃって」


外を見ていた視線を土方に戻すと、その後ろの黒板も目に入る。 ありったけのチョークで書かれたカラフルな「卒業おめでとう」が、クラスのメンバーの名前が、そこに一緒に書かれたありがとう先生の文字が、 わっと頭の中を乱す。さようならだ馬鹿野郎ども。


「銀八だって同じ教室から一緒の景色見て、一緒にいたじゃねえか」
「違げーよ、俺は先生だかんな、見えてるもんが違うよ」
「なんだよ……」


土方の声が頭の中に響く。まっすぐに見られなくなって目をそらした。過ぎ去って行くだけの者に、執着なんてしないと決めたのは自分だ。
不意に右腕を土方が掴んだ。スーツの上に羽織ったいつもの白衣が揺れて、同じように掴まれたことがあったなあと思いだす。 まるで前世のように遠い過去のように思えた。たかが半年なのに。その時からお互いに意識していることを隠したままここまで来た。 土方は卒業すればもうきっと思い出すことはないだろう。だから、引きずるのは自分だけでよかった。


「なんですか、土方くん?」
「じゃあ、何見てたってんだよ」


掴まれた腕に力が入る。同じようにひりひりと胸のあたりが痛んだ。教室の神様は、煙草の罰を許してはくれないみたいだ。 言ってしまうことも、言わないことも、どちらも罰なのだから同じかもしれないけれど。できるだけ慎重に息を吸った。まだ幽かに煙の臭いがした。


「……俺がこっから見てたのは、お前」
「銀八?」


力の抜けた土方の手を解いて、ゆっくりとグラウンドを指さす。思い出すことなんか、掃いて捨てるほどあるのだ。


「結構お前走るの早いよね。そんで、女子にもよく告られてたよね、なんでうちの学校ってあんな目立つとこが告白スポットなんだろな。 体育祭も文化祭もうちのクラスは馬鹿ばっかで苦労してたよな、副委員長は大変だったよな、お疲れさん」


土方はポカンとして聞いていた。こいつに忘れられたくないなあ、この窓から見ていたこと、見ていてほしかったもの。 隔たりの向こうで、それでも一緒に居たことを。


「この窓はそういう思い出。俺にはね。先生だから、本当はこんなこと言っちゃだめなんだけど」


笑おうとしても、うまく笑えなかった。目をそらして外を見る。日の傾きかけた窓に、二人が映っていた。ガラスの上で目があった。


「本当に?」
「もう嘘なんか言えねえよ」


土方を見ると、同じようにうまく笑えていなかった。それが愛おしくてただ、そっと頬に触れた。二つだった影が一つになって、銀八はゆっくり目を閉じた。 黒板のぐちゃぐちゃも、空っぽの教室も、土方の困った顔も、全部見えなくなって、唇にだけ暖かさが触れていた。
今こうして同じ窓に映っている自分たちがいるだけで、それだけで幸せなような気がした。 教室の神様に許してもらえなくったっていいや、と銀八は思いながら強く土方の手を掴んでいた。














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11.05.30
嬉しいことも悲しいことも全部同じ窓