人の望みよ喜びよ



















燐はオルガンの蓋を開けた。少しカビ臭いにおいがした。それを深く吸い込んで、そっと鍵盤に指をのせる。
聞いているかなと、ふと思って、そっと一音ならしてみる。












大講堂に入ると、ステージのすぐそばに燐が立っている。雪男は、燐が一体何をしようとしているのか、よくわからないまま、階段を下りて行く。


「兄さん?」


誰も居ない広い空間に声が響く。燐は声に気付いたようで、振り向くと大きく手を振って、勢いよくステージによじ登った。


「てきとーに座って待ってろ!」
「なんだっていうんだよ、兄さん」


いいから、と陽気な声で返事がかえってくるのを聞きながら、階段の中断ほどの位置の椅子に座る。 燐はステージを横切って端の方に備え付けてある、オルガンの前に腰掛けた。普段乱暴にものを扱う癖のある兄にしては、丁寧な手つきでその蓋を開ける。
一体何をするのだろうと雪男は半分呆れながら、でも少しだけ期待しながら、息をついた。いつも、いつもいつも本当に予想の出来ないことばかりする。 そのことに、ずっと小さなころから憧れて呆れて、期待して疎ましくもなり悲しくもなり、喜ばされてきたのだ。 サタンの子であれ祓魔師であれ何であれ、燐はいつだって自分の兄だった。

澄んだ一音が響いた。それを十分に聞いて、燐はゆっくりと指を動かし始めた。静かな曲だった。讃美歌だ。 修道院で育った身としては、なじみ深い曲だ。主よ人の望みよ喜びよ、と雪男はつぶやく。

兄がピアノを弾けることに若干驚きながら、その調べを聴く。おかしな人だと、我が兄ながら本当にそう思う。 悪魔のくせに。讃美歌を、人の喜びを望むのかと。

雪男は立ちあがると、再びゆっくり階段を下り始める。なるべくゆっくりと歩いたつもりだったけれど、まだ曲の途中でステージの前までついてしまった。 そのまま佇んで、じっとピアノの前に座る兄を見ていた。ゆったりと曲が終わりを告げると、燐は安心したように息をついて、そうっと蓋を下ろした。


「その曲、父さん好きだったよね。教えてもらったの?」
「まあ、暇な時とか。ジジイはちっとも弾けなかったけどな!」


茶化すように燐は笑った。きっと、自分が祓魔師の訓練や勉強をしている間に覚えたのだろう。 得意の料理のように。兄は、自分が思っている以上にきっと器用だ。


「もうこれしか弾けねーけど。簡単なやつだし」
「それでもすごいよ」


そうかな、なんて呟いて、ステージを下りてくる。飛び下りた際に髪が揺れて、尖った耳が覗いた。 ほんの一カ月前はこんな耳ではなかったのに、と思ってやめた。意味のないことだ。


「人の望みよ、喜びよ、か」


燐は呟いて、階段へと足を進めて行く。その後ろ姿を雪男は見ながら、追いかける。まだ、講堂全体に曲の余韻が残っている。 この余韻を知っていた。それを好んだ父を。お互いにそのことを何となく感じていながら、声に出さないのが不思議で、それでも正しいような気もした。 確かに、自分たちは兄弟なのだなと思う。

階段の途中でステージを振り返ると、学校なのになぜだか、確かに父が居たような気がした。


「雪男?」
「なんでもないよ」


燐が講堂のドアを開ける。外から、眩しいくらいの日差しが溢れてきた。春だった。














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11.06.06
この兄弟の全然違う感じとものすごく近い感じがとても不思議で惹かれます。
曲はバッハ作曲の讃美歌「主よ人の望みよ喜びよ」です。大変有名な曲ですが一応。